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【緊急発言】「アフターコロナについて考える」

2020年8月20日

【緊急発言】
  
「アフターコロナについて考える」
  
考えてみればわれわれ人間は、あの悲惨極まりない二度の世界大戦を経験し、掛け替えのない父親や兄弟を亡くし、筆舌に尽くし難い苦汁を嘗(な)めているのだから、もう戦争はこりごりだ、人間同士が殺し合うなどという恐ろしい考えは、断じて持たぬと意を決してもよさそうなものだと、コロナショックで“いのち”と面と向った世界中の人々が、いまこの時とばかり決意することが、アフターコロナの出発点ではなかろうか。
つまり「生き方を変える」ことだ。
  
自分達だけ得することを目指して生きているような利己主義の生き方、自分と意見の異なる人々を、強圧的に暴力的に従わせようとする傲慢無礼な生き方を、そろそろ変える時が来たのではないか。
既に人間の歴史も21世紀に入った。
もうそろそろ人間も在り方のレベルを一段上げて、強欲と殺戮渦巻く猛禽、獣(けだもの)の世界から、良識や道義の通る世界へ入るべき時ではないかと、東洋思想は訴え続けている。
  
この地球上で暮している人達は、何の宿縁か、同時期に生を受け、2020年8月の同じ空気を吸って生きているのだ。
まさに何かの縁だ。
更に同じコロナの恐怖を感じつつ暮しているという境遇を同じくする人々なのだ。
いわば仲間なのではないか。
仲間と争ってどうする。
殺し合ってどうする。
「人情」こそが東洋思想の根源だ。
人情が勝つか、戦争が勝つかの分岐点に、いまわれわれはいる。
憎しみ合って、対立し合って、殺し合う世の中から、思いやりをもって、気遣い合って、助け合って一生を終える。
一人一人が生き方を変えるのだ。
そうすれば何と、戦争の懸念が無くなるのだから、軍拡が無くなる。
ミサイルがいらなくなる。
そこへ費やしていた費用を地球上の富の平準化、つまり、貧しい人々が貧しさから脱する為の、様々なチャンス(機会)、教育や労働の機会を当り前のものとして成り立つようにする為の費用に転用するのだ。
  
江戸時代の思想家 横井小楠は、既に150年も前に、「国家主義」と「平和主義」というこの世の最大の矛盾を乗り超える論を主張している。
私流に解釈すると、国家主義とは、自国の発展繁栄を願うことである。
これは頭から否定するべきではないという。
自国の発展繁栄は何処から来るのか。
自国が富むことだ。
では、その富は何処から来るのか。
自国の商品・サービスを買って下さる他国から来る。
したがって他国はお得意さんである。
お得意さんを粗略に扱って良いわけがない。
「お客様の喜ぶ顔が見たい」というのが当り前のことで、その大切なお客様と対立し、争って、殺し合いまでするとは何事か。
と横井はいうのだ。
乱暴狼藉の客もいるではないか、という反論に、したがってまず相手の国が道、つまり道理、道義の持ち主かどうかをよくよく見定めることだ。
道を持たぬ国とは、つまり俗にいう非社会的勢力なのだから、そんなところとは取引せぬ方が宜しという。
しかしもし相手が「道に目覚める」可能性があれば、「至誠惻怛」誠実極まりない真心をもって、諦めずに諄諄と道を説き続けて、仲間に入れるのだという。
そして、「良識派の連体」をこの地球上に形成すべしといっているのだ。
  
矛盾といえば、いまわれわれは「経済活動」を採るか、「感染防止」をとるかで悩んでいる。
政府の見解は、アクセルとブレーキの様に、こまめに踏み変えて行くしか解決の道はないといっている。
先述した「国家主義」と「平和主義」の様に、両立し難いと思う矛盾に対して、東洋思想はどの様に考えているのか。
そもそも対立している二点、これを陰と陽と捉えてみると、陰陽の矛盾の解決は、どう考えても、先ほどのアクセルとブレーキの様に踏み変えて扱うというところには根本的な解決策はない。
解決策は、陰と陽に分かれる前、これを「太極」といい「元気」というが、そこに戻って考えるしかないと東洋思想は考える。
この「経済活動」と「感染防止」両方共通するのは、「人間」であり、「人間の活動」である。
人間の活動とは何か、といえば、まさにそれは「生き方」なのだ。
つまりこの矛盾の解決策は、「生き方の問題」の中にあるということだ。
「人はどう生きるべきか」という観点からこそ、検討すべきことを示唆しているのだ。

禅の真髄に「般若」がある。
意味するところは「智慧」である。
これをサンスクリット語で「ブラジュニャー」という。
「無分別」という意味だ。
当時もう一つの使用言語パーリー語ではこれを「パンニャー」というが、その音写から来たのが「般若」だ。
無分別とは何か。
論理、理屈、作為などが入る前の理解。
直感、直覚により得るまるごとの真理だ。
これに対して「分別」とは、「ヴィジュニャーナ」で知識だ。
「事を分けて話す」の分けるで、どうしてもそこには理屈が入り、人為が入る。
したがって知識には限界があり、知識では解からないことがある。
その最たるものが矛盾だ。
矛盾の解決を考える場合には、どうしても知識では解けない。
ここが知識社会・現代の弱点でもある。
人間には智慧があると東洋思想はいっているのだ。
分別で分けてはいけない。
無分別で分ける前を直覚として理解するところに、真の人間の力があるのだ。
  
老荘思想は「無為自然」を説くが、これをトコトン問いつめていくと、お念仏の浄土教で説く「自然法爾(じねんぼうに)」と一体化するように私には思える。
「人為を加えず、一切の存在はおのずから真理にかなっている」と説いている。
コロナはどうやら、自然が生み出したものであるから、自然に戻って考えるしかないのではないか。
この世の根源を「易経」は「太極」というが、そこに戻って考えるしかない。
とすれば、やはりそこに出てくるテーマこそ「人間はどう生きるのが良いのか」ということであり、そこに厳然と聳え立っているのが、「他の自然との調和」という在り方である。
人間が宇宙という自然の中に新入社員として参加をした頃は、きっと「遠慮しいしい」「他を気遣って」「謙虚に小さくなって」存在していたことだろう。
それがどうだろう。
いまや宇宙の覇者といわんばかりに、傲岸不遜に存在している。
不調和だ。
他の自然から見れば不調和な存在なのだ。
もう一度われわれ人間は、「調和」をキーワードに、その在り方、生き方を省(かえり)みるべきではないだろうか。

 

田口佳史

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